昭和41年06月09日 朝の御理解



 実意丁寧一筋の神信心が、教祖の神様のご信条であり、教祖の神様がこの上もない、人間としての最高の、ここまでは誰でも進まれると、誰でもここまでは上って来れれるという様な道を、私共に示して下さった。それはどこまでも、実意丁寧一筋のご信心が、天地金乃神と同根と言うところまでも、ご神格をお進めになられた。まぁ最高の手本であり、見本なのです。
 此の方のことを、生神生神と言うが、皆んなも、このようなおかげが受けられると仰るように。私共はそこが目指しですけれども、そこにはあまりにもの、隔たりを感ずる。ですからやはりと言うて、そんなことは出来んと言うて、さじを投げてしまえば、もう信心の精進も何もないのでございますから。教祖の神様は、人の手本になるような信心をせろと、こう仰る。ね。
 ですから、一つせめてこの人の手本になるような信心。さぁ私の信心を手本にしてからと言うて、自分が意識する訳ではないのですけれども、ただ自分の実意、これが私の実意の限りだと。これが私の一生懸命だと言った様なものを、育てていっておる、そこからそれに、皆んなが見習うて下さるようになる。聞き習うて下さるようなり。そしてその共々に共励し合い、共々に信心を進めていくことが出来る。
 昨夜、久富繁雄さん、御祈念に参られますが、最近朝の御祈念にも決まって、参って見えられる。本当に繁雄さんの信心は、まぁある意味で素晴らしい、それこそ人の手本になるような信心だと思うのですけれど、どうもそのあなたの信心には迫力がない。で私の信心に迫力が出来、いわゆる朝参り的な信心が身に付いて、それがあなたの信条になったら、鬼に金棒だろうと、まぁゆうに十年この方言うてきた。
 ところが御造営とか、また家庭の様々な問題が、その又はそのそういう風に、繁雄さんの心を揺り動かして、いわゆる発心されたのですね。朝の御祈念にお参りになる。しかももうその一番、まぁ御祈念前にお参りされる。で最近はもう麦の収穫で忙しいですから、御祈念前せめて二十分ぐらいは早く来て、そして早く帰らなければならんから、そういう様な工夫も、段々こらされてきておる。
 昨日もそうしてお天気がよございましたから、御祈念を頂いて半ばに帰られる事をお届けさせてさせておられたら、その御神願に頂いておられる事があるですね。私は本当にこの神様から頂く、お知らせと言った様なものは、本当にやはり誰でも受けられるんだと思うですね。しかもほんならあの繁雄さん辺りの、ほんなら一生懸命なられるかして、毎日の様にお知らせを頂いておられるが。結局私共の一生懸命というものが足りない。そこに神様と交流しない、通わないのだというふうに感ずるのですけれども。
 御神願にお湯のみ、お茶飲み茶碗ですね。お茶飲み茶碗をあの、永瀬さんがっとこう、伏せてあるのを起こして、こう差し出して下さったところを、御神願に頂かれたとこういう。夕べ参ってその事をお届けされるんですよ。本当に自分でも気が付いてないのだけれど。恐らく永瀬さんが、それを意識しておられるわけでもなかろうけれど、また永瀬さんが、ほんなら久富重雄さんを、あの方角違いのところに、起こしにお出でられる訳はないのだけれど、ね。
 目には見えないけれど、永瀬さんの信心の力というものが、ほんならそれだけではありますまい。ご自身の発心が大事なんですけれども、それでもやはりその永瀬さんの信心の力と言うものが、その言うなら朝でも起こしに行っておられるような、働きと言うものがあっておるということなんです。ね。誰でも人間だもの、ね。椛目で言うなら、先ず言うなら信心仲間であると同時に、総代仲間でもある。あの人に出来て私に出来んはずはない。誰だってこう言う様な励みが付く。
 私共の場合日頃その、例えば教祖の神様のようにですね。ここまでは誰でも上ってこれると仰るのですけれども。そこにはあまりも感覚が、あの開きがあり過ぎるのは、なかなか手本にしようとしても、なかなか手本にしにくいのでござ今すけれども。やっぱり信心仲間であり総代仲間であると、ね。あの人が出来ておるのに、私に出来んはずはない。そう言う様な一つの意気込みがです。
 そのまま永瀬さんが、私を手本にしなさいと言うておられるのでもなかろうけれども、繁雄さんをいわば、起こしに行っておられるくらいな働きが、目に見えない中にも、あっておると言う様な事を、神様がお知らせ下さったんでしょう。あなたの信心が、また誰彼を起こしに行く。誰彼が発心するくらいなです、やっぱり信心を身に着けてお出でらなければいけないですねと言うて、話した事でございますけれどもね。
 私共が迂闊に言う言葉とか、行動が例えば実意を欠いた。信心の教えを基にして、生活させて頂いておるものが、本当に自分のちょっとした不注意がです、迂闊がです。只今申しますこととを反対に、あの人でもあのくらいだから。例えば総代さんでちゃあのくらいだけん、私だんあげんななかでん良かろうと言った様なです。せんでも反対になっていくとすと、こら大変な事になる。ね。そこを本当に私共は考えさせて頂くと同時にです。ただ私の一生懸命。
 私のいわば実意丁寧神信心がです、ね。それが私を手本に見本にしなさいというのじゃなくてもです。それが誰彼の上に、そうした良い働き有難い働きになっていく。私は信心させて頂くものがです、ね。お互いにいわゆるその働き合いと言うものが、家族だけではない。信心のある者同士ではない。信心の無い者の上にも、そういう働きかけとか、働き合いと言うものが、なされていくことがです有難い。それが私はあの手本になるような信心とは、そういう信心ではなかろうかとこう思う。
 ただ自分の、ちょっとした不注意が、それとは反対のことになると、それは反対の手本に、見本になるわけなんです。あの人てちゃあのくらいだから。もういや幹部の誰さんてちゃあんくらいじゃけん。私共がこん位なはずだと言った様なものではなくてです、ね。あの人があれだけのことが出来ておられるのだから。自分にあれだけのことが出来んはずは無いと言った様なものを与えられるだけの信心。ね。言わず語らずの中にです、そういう働きかけが出来れるような信心。
 それを教祖が仰る、人の手本になるような信心とは、そういう様な信心じゃなかろうかと言う様な事を、まぁ昨夜の繁雄さんのお届けの中から、感じさせて頂いた。はぁ自分で自分が、だれかれを起こしに行きよるようなことは無いのだけれど。永瀬さん私に今日はもう、やはり一生懸命のあの人の信心がです。そういう様なのは繁雄さんだけじゃなかろう。ね。誰彼にもやはりそういう様な信心が、こう働きかけておるに違いない。そういう信心を、私そういう良い働きをしていくそのことをです。
 私は手本になるような、信心というのではなかろうかとこう思うんです。教祖の神様の奥城に参拝されますと。あの奥城のいわゆる遺号ですね。おくり名が人力おどしの尊と書いてある。ね。人間の力で、人の世を驚かすほどのご神力であり、お力であり又はあのお働きであり、お徳であるという様なことを称えた、おくり名であるとこう思うのでございますけれども、ね。私どもが精進させて頂きますとです。私共にもこんな力があったんだろうかと。ね。
 私共にもこういう働きが出来るのであろうかという様な働きがです。やはり出来るんです。ね。しかもそれが限りなく、信心の稽古が続けられていくところに、限りない力というものが、自分についてまいります。それを私は身に着いてくる徳という風にも感じます。どうぞ人の手本になるような信心と仰るのでございますから。手本になるような信心させてもらわなきゃ、ならんと思いますね。
   どうぞ。